2009年06月14日
メメント・モリ(死を忘れるな)
「メメント・モリ」とは「死を忘れるな」という意味のラテン語で、中世のヨーロッパでよく使われた警句です。
もしも今、あと1ヶ月しか生きることができないと知らされたら、何をするでしょうか?
多くの人はやりたいけれどもできていないことをするでしょう。食べたいものがあれば、好きなものを食べようとするでしょうし、訪れたい場所があればそこに行こうとすることでしょう。
友人や家族には会えるだけの時間できるだけ会うでしょうし、好意を抱いていてもまだ想いを十分に伝えることができていない異性がいるとすると、積極的に思いを伝えようとすることでしょう。
いずれにしろ、「いま」という時間の濃度が上がることはたしかです。会う人一人一人がいとおしく感じられ、自然の景色は美しく感じられることでしょう。ふだんは目にもとまらない存在である道ばたの名もない花にすら、その存在に対して感動するかもしれません。
寿命が1ヶ月しかないという話は極端ですが、少しでも死を意識することが、生の密度を濃厚にすることに納得できる方は多いと思います。
死を意識すると日々の瞬間が充実します。もともと人間のまわりには数多くの死が存在するのが当たり前の状態でした。日本でも少し前までは、若い人が病死するのは珍しいことではありませんでした。
現在の日本社会では、死を目にすることはほとんどありません。まれに人が亡くなる場合も、病院で管理されて亡くなることが多く、ある程度事前に覚悟できていることが多いと思います。
死が身近にあることは人間を不安にさせますが、同時に自分の死の可能性を思い出させることにより、生きている瞬間を充実させます。
死には人間を不安にさせるという否定的な側面と、生を充実させるという肯定的な側面があります。
生と死に限らず、対になるものの否定的な一方を意識化させないと、他方の肯定的な側面までも失われてしまうことがあります。
ほかのわかりやすい例を挙げると、空腹であることと食欲を満たすことです。空腹を避けすぎると、ものを食べる喜びも失われてしまいます。
自分の死を意識すると、今という時の密度が上がります。今という時の密度が上がることを言い換えると、覚醒度が上がるということです。
そう考えると、死を意識しない日常は部分的に眠りながら過ごしているとも言えるかもしれません。
生きることの覚醒度を上げるには、死を意識すること以外に、恋をすることや、自然や物事に感動すること、心の底からやりたいことに没頭することなどがあります。
これらに共通するのは何でしょうか?
これらはすべてエゴを無くすことと関係があります。人生の密度を下げるのは、自分自身に対する過度のこだわりです。
人間は自分にこだわって大事にするあまり、人生の喜びから離れてしまっています。人間は安心が満たされすぎている日常的な環境からは、生の充実感を感じられるようにはできていないのかもしれません。日本を覆う沈滞した雰囲気は、そのあたりのこともあると思います。
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この記事へのコメント
とか言う意味だったんですねえ。
ワンシーンごとに未来から過去へと時間が逆行していく構成。
私の場合、命の期限を区切られたら、好きだった人に告白しまくるとか、過去に遡って当面の悔いをつぶしていって、そのはてに日常の一瞬を大事にするような気がしますね。
命の期限が区切られたら、生は性なので、異性関係ははずせないところかもしれませんね。
過去の悔いも記憶としては現在にあると言えるので、いずれにしろ日常の一瞬は大事になると思います。
コメントのご指摘部分は訂正しておきました。