2009年12月01日
『神々の科学―奇跡の瞬間』
青山 圭秀著 2009年11月30日発行 1680円(税込)
神々の科学―奇跡の瞬間
著者:青山 圭秀
販売元:三五館
発売日:2009-11
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著者は15年くらい前から主にインドに関係したスピリチュアルな本を書かれている方です。今は文庫でも読むことができる『理性のゆらぎ』『アガスティアの葉』などの著作は、読んだ当時その内容に衝撃を受けました。
あれから15年過ぎましたが、それらの本に書かれていた内容についてはさまざまな角度から肯定・否定の議論があるようです。その内容の真偽を白黒はっきりすることは置いておいても、少なくとも読み物として非常に面白いです。
本書に興味のある方は、上に紹介した2冊の文庫本に目を通してから本書を読んだ方がより面白く読めるはずです。最初に読むには、本書よりも上記2冊の本がより面白いと思います。
本書も含めて著者の本にはいろいろと不思議な話が出てくるのですが、その根底にあるのは世界は生気的・有機的な統一体であるという世界観です。
このような世界観は、ビジネス書でもその一部が述べられていることがあります。たとえば、潜在意識で願ったことは実現するということなどです。これは人間の内面つまり心と、外面つまり世界が有機的に結びついているということを別の形で表現しています。
世界が有機的な統一体かあるいは無機的な存在かということは、180度立場が異なります。
世界が有機的であると思っている人からすると無機的な世界観の人は世界に対する認識が浅いと映るでしょうし、無機的な世界観を持っている人からすると有機的な世界観を持っている人は理性的でないと思ってしまうかもしれません。
本書はもちろん有機的な視点からの世界を描いていますが、世界が有機的であることを本当の意味で認識できるのは「悟り」を得た人になります。
本書では著者が不思議な体験をしながら、「悟り」への過程を進まれる状況が描かれていますが、著者もまだ悟られているわけではありません。
そのような意味においては、本書では無機的な世界観の視点もあります。有機的な世界と無機的な世界が入りみだれて織りなされている世界が本書に描かれている世界です。
無機的な世界観の人からすると、有機的な世界観は「気味悪く」感じる部分もあることでしょう。その気味悪さはヌミノーゼという言葉で表現されますが、本書のようなスピリチュアルなことに対して否定的な人の根底には、その気味悪さに対する怖れに似た感情があるのかもしれません。
人によって世界の現れ方が異なる一つの説明に、世界は人がどのように世界観を持っているかによって世界自体が異なってくるかもしれないということがあります。
著者のまわりで不思議なことが起こるのは、著者がそのような世界観を根底に持っているということがあるのかもしれません。ただし、この説明自体も有機的な世界観にもとづく説明になります。
世界が有機的であることを本当の意味で認識するためには悟りを得るしかありませんが、その途上では信じるという行為が必要になります。
信じるという行為は、人によっては理性による知的格闘を放棄しているようにも思われるので、そのあたりの葛藤をどのように乗り越えるかは一つの関所です。
理性によって考えることをエゴと一体化させている人にとっては、理性によって考えることを放棄すると、自分を失ってしまうような感覚が生じます。
世界が有機的なものであるということを垣間見させてくれるものにシンクロニシティなどがありますが、このような現象には正のフィードバックがあるようです。
もしも悟りという境地があるとすると、本書に書かれている数々の不思議な話は、悟りに非常に近い状態にある人が正のフィードバックによりさらに悟りに近づいている過程であると考えることができます。
いずれにしろ、このような問題については言葉ですぐに白黒はっきりさせることはできません。本書を読んでも問題がすっきりするわけではなく、むしろ人によっては混乱を生じるかもしれません。
混乱が生じることを楽しめるくらいであると、本書を読む場合にはよい心構えになることでしょう。
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この記事へのコメント
人類がまだ知らない世界が確かに存在すると思いますが、多くの書物を読まれている先生はどのようにお考えでしょうか?
人間はいつの時代も自分たちは十分に知っていると思いやすい存在です。たしかに過去と比べると、「いま」は最新なのでそう思うことも一理あります。
しかしながら、「いま」もはるか先から振り返ると大昔になるので、人類がまだわかっていないことはまだまだ数多く存在することでしょう。
本書に書かれているような、有機的な世界観の真偽については本当の意味で判断するのは、自分で悟らない限り何とも言えません。そもそも悟りという状態が存在するかどうかすらわからないところがあります。
もしも悟った状態があるとして、そのような状態になったとしても、悟っていない人にそれを本当の意味で理解してもらうことはできません。
以前このような問題についていろいろと考えたのですが、結局悟りという状態があるにしてもないにしても、日々の生活で自分がやりたいことをやるという意味においては、いずれも日々の生活は同じであるというように思っています。
もしも悟りという状態があるとすれば、自分が本当にやりたいことを追求するのがそこへの近道ですし、悟りという状態がないとしても日々やりたいことをやるのは後悔がありません。
このように書くと悟りを仮定してそれを追求することは意味がないように思われるかもしれませんが、それが面白くてやりたいことであれば、それはそれで意味があることです。
いずれにしろ、日々自分が本当にやりたいことを自分に素直にやり続けるのが一番だと思います。実際はなかなか難しいことではあるのですが。
よくこの道50年とかの職人さんの顔は悟りを得たような感じだと言われます。
私はサンドブラストというガラス工芸の一技法を教えているのですが、そこまでは行けそうもないです。
自分がやりたいことややるべきことに長年集中できていると、心が穏やかになるのかもしれません。
職人的に没頭できるものがあることは、たとえそれだけだったとしてもいいですね。