2008年01月19日
『黒山もこもこ、抜けたら荒野』
水無田 気流著 2008年1月20日発行 735円(税込)
黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)
一風変わったペンネームとタイトルですが、理由としては、著者が詩人だからということもあるのでしょう。著者の『音速平和』という詩集は第11回中原中也賞を受賞しています。また社会学者でもあるようです。
本書の内容は、著者の生まれが1970年ということが大きく影響しています。というより、そのことが本書の軸になっているのかもしれません。
日本でデフレが始まったのは1997年ですが、1990年代の初めにはその気配はありました。著者の世代が社会に出る時期に相当します。バブルで景気がよかった時代は現象として体験していますが、社会人としては経済活動に加われなかった世代です。将来への大きな期待が裏切られた世代とも言えます。
本書にも書かれているように、1980年代以降に生まれた人たちは景気のよい時期を知らないので、「最初から、荒野生まれ、荒野育ち」ということです。また、著者より一世代上、1960年代を知っている世代は日本が経済成長のまっただ中で希望と活気に溢れていた時代を知っています。1970年代生まれは、落差があるだけに、最も主観的なつらさを感じている世代です。
ニートやフリーターとして話題になるのは1970年代が多いのですが、論じられるときは、社会・経済現象としてひとかたまりにマクロの視点で話題になることが多いように思います。
本書は著者の個人史が詳しく語られていますが、いままでマクロに語られることが多かった1970年代生まれの閉塞感を、ミクロに語るための手段の一つであると思われます。
最後のページに、「敵は、日常にあり」とポツンと書かれています。この一文は著者の心の叫びのように感じます。日常=ケの日々とすると、バブル崩壊以降の日本は普通に生活している人が感じられるようなハレの日々がありませんでした。
ITバブルはありましたが、景気のよさは一般の人々には実感できませんでしたし、いざなぎ景気をこえる戦後最長の「景気回復」も実感できていない人の方が多いでしょう。
日常が敵ということは詩の創作における非日常的感覚の必要性ということもあるのでしょうが、ここ15年以上にわたる日本におけるハレの不在が暗示されているのかもしれません。
大学などのポストが少なくなったことによる、研究者の就職難についても書かれていますが、本書で書かれている多くの問題は、日本の経済が成長を続けることができれば解決しそうな問題です。本書に「詩歌ですらも経済成長と連動する」とありますが、詩歌は景気に対する感受性が強いように思います。
本書の意義は、社会学的素養と詩的センスを併せ持った著者が、個人というミクロの視点で1970年代世代の人が共有している閉塞感を表現していることにあります。本書を同世代の人が読むと、言葉にできないけどたしかに存在していると感じられる自分の内面の鬱積感が巧みに表現されているため、ある種のカタルシスを感じることができるかもしれません。