2009年09月23日
『アエラ族の憂鬱』
桐山 秀樹著 2009年9月29日発行 1365円(税込)
アエラ族の憂鬱
著者:桐山 秀樹
販売元:PHP研究所
発売日:2009-09-16
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「アエラ族」という言葉は一般的ではないと思いますが、以下のアマゾンにおける本書の内容紹介がわかりやすいと思います。
「「アエラ族」とは、朝日新聞出版が発行する週刊誌『AERA』でたびたび特集される20代後半〜40代の女性読者を指す。その条件として想定されているのが、
(1)高学歴
(2)未婚
(3)キャリア・ウーマンとして中間管理職の地位についている
女性たちである。」
本書はPHP研究所から出版されていますが、『AERA』は朝日新聞社の雑誌であり、本書からは両者の人間観や出版社の編集方針などの違いが読み取れると思います。本書の目次は以下の通りです。
- 「超高級ホテル」から若い女性が消えた
- 「男=女」---「アエラ族」はなぜ”生きにくい男たち”と同じになりたがるのか
- アエラ族は、不幸になる---歪められた「婚活」時代
- 「アエラ族」に告ぐ---「孤独なおひとりさま」の老後に覚悟はありますか
- 行き過ぎた「女尊男卑」の果てに
- 「アエラ族」の品格と孤独
- 「女」に生まれたことは本当に損か---「アエラ族」よ、何が言いたい
本書の内容はかなり批判的な部分もあるので、人によっては冷静に読めないところもあるかもしれません。
アエラ族の出現については、女性が長年男性性の強い社会において抑圧され続けたことに対する反動があると思います。
男性はもともと男性性が強く、女性はもともと女性性が強い存在です。これは、長年の進化の歴史によって形成されており、根深い傾向のため容易に変えることはできません。
ただし、男性にも女性性はあり、女性にも男性性があります。女性が抑圧され続けたと書きましたが、正確には女性の内部の男性性が抑圧されていたということです。女性のすべてが抑圧されていたわけではありません。
最近は女性の社会参加も以前より推奨されており、女性の内部の男性性も解放されてきました。それによって、以前は抑圧されていた女性の内部の男性性を過剰に解放しようとする反動が生じています。
女性の内部にある男性性をある程度解放することはそれほど問題はないと思いますが、それが女性の内部の女性性の否定に結びつくと問題となります。本書の著者が批判的なのは、女性が男性性を解放することではなく、女性性を抑圧することについてであると思います。
逆に男性で考えてみるとわかりやすいでしょう。男性の内部にも女性性がありますが、自分の男性性を否定して女性性だけを解放すると、どこか不全感が残ります。
具体的には、女性と付き合うときに優しさや感情的に理解し合うなどの女性性のみで付き合うと、どこか満たされない感じがしますし、端から見てもすっきりしません。
長年の進化の歴史において、男性は男性性を発揮するときに、女性は女性性を発揮するときに幸福感を感じやすくできているはずなので、男女が本来の性質を抑圧して対になる性質に偏って生きることは、重い荷物を背負って歩くようなものです。
男女がそれぞれ本来の性質を発揮せずに生きることは、善悪の価値判断によってよくないのではなく、損得によって不利であると考えるとよいかもしれません。
女性が自分の内部にある抑圧されていた男性性を解放するのはよいことであると思いますが、それが女性性の抑圧につながると、本来感じられるはずの女性としての幸福感が感じにくくなります。
そうなると、男性性の解放は本来は幸福感のためであったのに、女性性の抑圧とつながると逆に幸福感から遠ざかります。女性が女性性を抑圧してしまうと、生と性に不全感が生じやすくなり、異性との交流についてもうまくいきにくくなるかもしれません。
そのあたりに注意すると、『アエラ』の記事も役立つと思います。女性にとってもある程度男性性を解放することは意味がありますし、それと同様に男性が女性性を解放することも意味があると思います。
ただし、それ以前にもともとの性質が十分に解放されている必要があります。要はバランスの問題です。アエラ族的な女性ほど、自らの女性性を抑圧していないかどうかに対する注意が必要です。
どれくらい女性が自分の女性性を抑圧しているかは、本書を読んでどれくらい腹立たしく感じるかでわかるかもしれません。
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この記事へのコメント
この本に対する書評をいくつか読みましたが
こちらの話が一番納得できました。