2013年07月22日
『嘘の見抜き方』
嘘の見抜き方 (新潮新書) [単行本]
著者は長年検事として勤めていた方で、現在は弁護士をされています。本書は取り調べの現場で積み重ねられた経験がベースになっており、取り調べの場という極限的な状況から得られた、嘘についての一般的な考察が興味深いと思います。
本書の章立ては以下の通りです。
- 人が嘘をつく四つの理由
- 嘘を見抜くための心得
- 嘘つきはこのセリフを使う
- 仕草から本心を見抜く
- 嘘を暴く質問とは
- 難しい敵の攻略法
- 自ら真実を語らせるには
- 人は気付かぬうちに嘘をつく
- 社会は嘘をどう扱うか
本書の「はじめに」にも書かれているように、「この世は嘘に満ちている」のが現実であることは、程度の差はあるにしても、大人になるにつれて認識する事実です。
刑事事件における取り調べは非日常的な場であり、本書に書かれていることは各種の嘘はある意味極端な実例なのですが、極端な例が逆に物事の理解を深めるのはよくあることです。
取り調べというと一般的には厳しいイメージがあると思いますが、本書からは生来的に嘘をついてしまう人間という存在に対する哀しみについての理解と共感が感じられます。
個人的には、嘘という現象が存在するのは、人に意識と無意識の二面性があるからと考えています。意識と無意識の乖離が嘘という現象です。 意識の役割の一つに、嘘によって相手と自分の無意識の間を、そして自分自身の無意識を調整するということがあります。
本書にも書かれているように仕草の観察が嘘を見抜くためのポイントとなるのは、仕草は無意識をストレートに反映していることが多いからです。
嘘をつくのは一般的には悪いことと思われていますが、これは嘘という言葉自体にはたんに真実と異なったことを話すことに加えて、 真実と異なったことを伝えることにより何らかの損失が与えられるニュアンスが含まれているからでしょう。
異なった存在の無意識、もっと俗っぽい言葉で表現するなら、異なった存在の欲望や利害を調整するためには「嘘」は欠かせません。嘘という言葉に否定的なニュアンスが伴うのは、交渉における駆け引きがぶつかり合う場で生じることが多いので、少しでも気を抜くと自分が損失を被ってしまうからです。
本書の最後の方に「国益のためなら「国家の嘘」は許される」とありますが、これは国家を一つの実体と考えると、その共同体内部においては一応利害関係は一致する、あるいはそれを共有していると見なされるので、内部の立場からすると嘘が許されることになります。
国家も一人の人間も一つの実体なので、もしもこれを一人の人間に当てはめるとすると、個人の利益のためならばその個人からすると「嘘は許される」となります。 おそらくある程度の嘘を自分自身では許していることは、精神の健全さに結びつくはずです。
結局のところ、多くの場合嘘が問題になるのは他者との利害関係があるからです。 国益のためなら国家の嘘は許されるかもしれませんが、他国の立場だとそうはならないでしょう。
世の人々の言動を観察すると、他者に損失を与えないのであれば多くの場合嘘は容認されますし、嘘をつくことによって利益が保護されるなら、嘘は歓迎されることすらあります。
「お願いだからホントのことを言って!」という女性に対して、本当のことを言うほど残酷なことはありません。女性が男に確認したいのは、嘘をついてでも自分にコミットし続けてくれる「誠実さ」が男にあるかどうかだからです。
嘘について考察を深めるのは、人間存在の本質について理解を深めるよい手段の一つです。 新書の性質上体系的なまとまりにはやや欠けるきらいはありますが、実例も豊富であり、本書はそのヒントになる本であると思います。
刑事事件における取り調べは非日常的な場であり、本書に書かれていることは各種の嘘はある意味極端な実例なのですが、極端な例が逆に物事の理解を深めるのはよくあることです。
取り調べというと一般的には厳しいイメージがあると思いますが、本書からは生来的に嘘をついてしまう人間という存在に対する哀しみについての理解と共感が感じられます。
個人的には、嘘という現象が存在するのは、人に意識と無意識の二面性があるからと考えています。意識と無意識の乖離が嘘という現象です。 意識の役割の一つに、嘘によって相手と自分の無意識の間を、そして自分自身の無意識を調整するということがあります。
本書にも書かれているように仕草の観察が嘘を見抜くためのポイントとなるのは、仕草は無意識をストレートに反映していることが多いからです。
嘘をつくのは一般的には悪いことと思われていますが、これは嘘という言葉自体にはたんに真実と異なったことを話すことに加えて、 真実と異なったことを伝えることにより何らかの損失が与えられるニュアンスが含まれているからでしょう。
異なった存在の無意識、もっと俗っぽい言葉で表現するなら、異なった存在の欲望や利害を調整するためには「嘘」は欠かせません。嘘という言葉に否定的なニュアンスが伴うのは、交渉における駆け引きがぶつかり合う場で生じることが多いので、少しでも気を抜くと自分が損失を被ってしまうからです。
本書の最後の方に「国益のためなら「国家の嘘」は許される」とありますが、これは国家を一つの実体と考えると、その共同体内部においては一応利害関係は一致する、あるいはそれを共有していると見なされるので、内部の立場からすると嘘が許されることになります。
国家も一人の人間も一つの実体なので、もしもこれを一人の人間に当てはめるとすると、個人の利益のためならばその個人からすると「嘘は許される」となります。 おそらくある程度の嘘を自分自身では許していることは、精神の健全さに結びつくはずです。
結局のところ、多くの場合嘘が問題になるのは他者との利害関係があるからです。 国益のためなら国家の嘘は許されるかもしれませんが、他国の立場だとそうはならないでしょう。
世の人々の言動を観察すると、他者に損失を与えないのであれば多くの場合嘘は容認されますし、嘘をつくことによって利益が保護されるなら、嘘は歓迎されることすらあります。
「お願いだからホントのことを言って!」という女性に対して、本当のことを言うほど残酷なことはありません。女性が男に確認したいのは、嘘をついてでも自分にコミットし続けてくれる「誠実さ」が男にあるかどうかだからです。
嘘について考察を深めるのは、人間存在の本質について理解を深めるよい手段の一つです。 新書の性質上体系的なまとまりにはやや欠けるきらいはありますが、実例も豊富であり、本書はそのヒントになる本であると思います。